■ポールハリス伝

ポール・P・ハリス(Paul P.Harris)は1868年4月19日、米国ウイスコンシン州ラシーン(Wisconsin,Racine)で生まれ、父はジョージ・ハリス(George Harris)、母はコーネリア・ブライアン・ハリス(Cornelia Bryan Harris)。父ジョージは商人で、祖父は米国バーモント州ウオリングフォード(Wallingford)のハワード・ハリス(Howard Harris)で、母コーネリア(Cornelia)の父は、ラシーンの副市長ヘンリー・ブライアンです。
ハリス夫妻は長男をセシル(Cecil)と名付け,次男をポール・パーシー(Paul Percy)にしました。ハリス夫婦は金銭感覚に乏しかったので、かなりの財政的な援助をジョージの父親から受けておりました。2つ年上の兄、セシルがポールの面倒を見る事も度々ありました。浪費癖の結果、遂に両親、ジョージもコーネリアも破産し、父親のジョージは、妻のコーネリアと生まれたばかりの赤ん坊をラシーンの仮住いに残し、2人の息子たちをバーモント(Vermont)の実家の祖父母に預けました。
当時5歳半のセシルと3歳のポールは、バーモントのグリーン・マウンテンの谷間の新しい環境下で生き生きと成長しました。2人は、厳格ではあるが優しい祖父母の下で、山道を歩き廻り、農場の動物に餌を与え、手作りの素朴な食事で暮していました。やがて兄のセシルは、3人の子供が居る大家族の、父母の所へ戻りましたが、ポールは祖父母の所に留まりました。
祖父のハワードは、限られた教育しか受けていませんでしたが、法律家になることを夢見たことがあり、ポールがその夢を引き継ぎました。後にポールが記しているように、彼の目的意識、誠実、正直さという態度は祖父から引継いだもので、他人に対し、特に子供達への愛情は祖母のパメラから学びました。
ポールは戸外で遊ぶのが好きで、歩くこと、ハイキング、スケート、鱒釣りや山の急斜面を滑り下りる事が好きでした。更に大の悪戯っ子で、祖父母がポールは熟睡していると思っている時間に、友達と一緒になる為に寝室の窓から抜け出したりもしました。
高校卒業後、ポールはラドロー(Ludlow)のブラック・リバー専門学校に入学したが、悪戯が原因で退学になりました。祖父母は彼をバーモント陸軍予備校に入れ、1885年にポールはバーリントン(Burlington)のバーモント大学に入学しましたが、再び素行不良で退学処分になりました。しかし今度はその処置そのものが誤ったものでした。
(後年、大学側が謝罪し、ポールと誤って処分された他の3人に学位を授けました)
彼は家庭教師として働いた後に、プリンストン大学(Princeton University)に入学、プリンストン大学在学中に祖父が亡くなり、祖母との関係は更に深まりました。
プリンストン大に入学してから1年後、ポールは大理石の会社で日給1弗で雑用係として働き始め、彼の立派な勤務態度が経営者の認めるところとなりました。其の後、祖母が娘の家で無事に暮しているのを確認した上、ポールは法律を学ぶためアイオワ大学(State University of Iowa)に入学することにしました。アイオワへの途上、シカゴで1週間を過ごしたポールは、この無秩序で騒々しい都市シカゴに魅了され、ここに戻ってくる事を心に誓いました。
特別に学業に励んだ学生では無かったが、1891年に法律の知識を十分身につけ、書物、特に成功者の自叙伝の愛読家となったポ―ルはアイオワ大学を卒業しました。
卒業して間もなく祖母が亡くなりました。ポールは、祖母の埋葬に立ち会い、悲しみに打ちひしがれながら、祖母が78年の全生涯をあの小さい谷間の村で過ごした事に気付きました。ポールが其の時に決心したのは、世界を見て歩くことでした。其れからの5年間、考えられる全ての角度から、また出来る限り多くの場所から、人生というものを学んで過ごそうと決め、その後はシカゴに行き、弁護士になろうと考えておりした。
ポールが最初に目指したのはカリフォルニアでしたが、途中にイエローストーン・パーク、北部アイダホや他の観光地を訪ねました。1891年7月、彼はサンフランシスコに到着しましたが、ポケットには一銭もありませんでした。彼は「クロニクル紙」(Chronicle)の記者としての職を得、やがて一人の記者仲間と一緒に、仕事をしながら全米を見て歩くことを決めました。農場での臨時雇用、徒歩での300哩の山岳地帯やヨセミテ峡谷踏破、ブドウ摘み、ビジネス学校の教師、劇団の俳優や牧場でも働きました。フロリダへやって来たポールは、ジャクソンビル(Jacksonville)のホテルの夜間事務員の仕事を見付けました。次に彼は、大理石と花崗岩のデイ―ラーであるジョージ W.クラーク氏(George W.Clark)の下で出張販売員として働きました。
(クラーク氏は20年後にジャクソンビルRCの創立会長になっています)。
1893年、クリーブランド大統領の就任式を見るためポールはワシントンへ行き、そこから大理石販売にアメリカ南部へ行きました。次にフィラデルフィアへ行き、英国リバプール(Liverpool)へ牛の運搬船上で牛の世話をするという14日間の厳しい仕事を引き受けました。そのまま米国に戻るという契約でしたので、ロンドンを見るという夢は達成出来ませんでした。然し間も無く、もっと良い船で働く契約をして、直接ロンドンへ行く機会がやって来ました。
フィラデルフィアに戻ったポールは、シカゴ万博行きの列車に乗り込み、シカゴからニュー・オーリンズへ行き、オレンジの収穫手伝い、牡蠣を網から取る仕事をし、それからジョージ・クラーク氏の大理石会社のあるジャクソンビルに戻って、1年間南部諸州やキューバ、バハマ諸島を回る仕事をしました。その後、クラーク氏は英国やヨーロッパ大陸にポールを送り、花崗岩、大理石の産出地を見て回らせました。行く先々でポールに友人が出来ました。
アメリカへ帰って、ポールはシカゴでの生活計画を作り始めましたが、決めていた5年の中で3年半が過ぎ、金が必要になり、そこで、再び大理石会社のジョージ・クラーク氏に頼み込み、ニュー・ヨーク事務所の責任者に任命されました。最初に考えた5年の期限を4ヶ月後に控えた1896年2月27日、ポールはシカゴにやって来て、事務所用に小さなスイートを借り、レンタルの家具を入れ、自分用の部屋を作り、残りを又貸ししました。世紀末のシカゴはまさに沸き返る状態にあり、不安定な社会と金融情勢は弁護士にとり最高の働き場所でした。
ポールの人懐っこい性格のおかげで、彼には社会のあらゆる階層の友達が出来ました。しかし、日曜や休日などには、この「田舎からの男」は市街地から出て行くのが好きで、郊外を散策しながら、家庭での簡素な親睦の場に憧れてをりました。
1900年のある夏の夕刻、ポールはシカゴのロジャース・パーク(Rogers Park)近くで一人の友人と食事をしました。其の後で、二人は色々な店に立ち寄ったりしながらぶらぶらと歩いて行きました。友人は立ち寄る店毎で、そこの主人を紹介して呉れました。ポールは、この様な色々の仲間を、一つの社会的枠組みの中に集めるのも面白いのではないかと考え始めました。一人一人がそれぞれ違った職業に携わっていれば更に大きな利点が有るだろうとも考えたました。ポールは自分の依頼人の事を思い浮かべました。それは、石炭商のシルべスター・シール(Silvester Schiele)、採鉱技師のガスターバス・ローア(Gustavas Loer)、印刷工のハリー・ラグルズ(Harry Ruggles)などでした。1905年2月23日の夜、ポール、シルベスター、ガスターバス、それに洋服仕立屋のハイラム・ショーレー(Hiram Shorey)が、ダウンタウンにあるユニテイ・ビルデイング(Unity Building)のガスターバスの事務所に集まりました。
彼等は定期的に集会を開き、他の知り合いを「クラブ」の集会に連れて来るようになり、ポールはクラブの名前の候補をいくつか提案し、その中から「ロータリー」が選ばれました。この名前は、集会が会員の事務所で順番に行われる「ローテーション」方式になっている事から来るものでした。会員数が急速に増加し、独力でビジネスに成功した者たち、特に農場や小さな村か出てきた独身男性が多く集まりました。
ロータリークラブはだんだん他の都市にも生まれ始めました。偶然ですが、ロータリーの拡大を特別に計画していなかった事が一般的に支援の源になりました。ポール ハリスはその著述の中で明確に、真実に優るものは無いと述べ"計画"(The plan)の題名でロータリアン誌(THE ROTARIAN)に出ております。
ポールはやがて、成長を続けるくクラブ組織について次の事に気が付きました。つまり、色々な職業の会員が等しく友情を分かち合いながら育てるクラブの組織が成長すれば、宗教的、政治的寛容を育てる豊な苗床になり、更に奉仕の源になるだろうという事です。それは、とりも直さず、友情というものは必然的に善意と善行に到達するものだと、ポールは固く信じていたからです。
ポール・ハリスは彼の全エネルギーの全てをロータリーに費やした訳でわ無く、シカゴ商業協会、シテイクラブ、シカゴ法曹協会、ヒンズデール・ゴルフクラブ(Hindsdale Golf Club)などの会員でした。また、プレーリー・クラブ(Prairie Club)というハイキング・グループの創立会員でした。この会で、彼は3年前にスコットランドからやって来たジーン・トムソン(Jean Thomson)という若い女性に出会い、それから丁度3ヶ月後に彼女はポールの花嫁となりました。二人は、互いに出会った丘の上の家を買い、ジーンはその家を、スコットランドの自宅の通りの名にちなんで、「カムリーバンク」(Cmely Bank)名付けました。
1907年、ポールはアルバート・L・ホワイト氏の跡を継いでシカゴRCの会長になり、2期目の途中までその職に在りました。1908には第2番目のサンフランシスコ・クラブが結成され、1910年には全米に16のクラブ(会員1,800名)が誕生しました。同年、全ロータリークラブがシカゴでの最初の大会に参加し、この時に“骨折り仕事”を引き受けたのがチェスリー・ぺリー(Chesley Perryでした。この大会で、「ザ・ナショナル・アソシエーション・オブ・ロータリークラブ」(The National Association of Rotary Club)の名称と、慎重に検討された定款と細則」が生まれ、ポール・ハリスが会長に、チェス・ベリーが初代事務総長に選ばれました。
チェスが、すべてのロータリークラブ及び当時1,800人の全会員に送るメッセージをポールに求めたところ、ポールは極めて長文の演説でそれに応え、チェスは後でそれを文章に纏めました。これが1911年1月に刊行された「ザ・ナショナル・ロータリアン」(The National Rotarian)第1巻、第1号です。
チェス・ペリーがこの新しい共同体の組織作りと、管理運営という艱難な仕事を続け、ポール・ハリスは主として広報に力を注ぎました。ポールと仲間の9人のシカゴの会員が、50人のメンバーからなるミネアポリスのクラブを創立しました。彼はシンシナイ、クリーブランド、デトロイト、ピッツバーグ、インデイアナポリスの新クラブを訪問し、ハリスはロータリーが拡大するに従い、外国へも数多く出掛けました。
ロータリーの創始者として、また「名誉会長」として、彼はその足跡を留めた地域の至る所で、組織の拡大に強力な感化と影響を与えた人物でした。
ハリス夫妻はコムリー・バンクで多くのロータリアンをもてなし"時にはテーブルに11ヶ国からの人が集まりました"と言われ、庭には訪問を記念して植樹をし。
ポールは度々、友人名簿が世界中の国を網羅するのを望むと洩らしておりました。更にポールは友好な気持の交換は理解と善意を促進するのに最も優れたものと考えておりました。
1935年2月9日にフィリッピンのマニラで開催の第5回太平洋地域大会にロバート・ビルRI会長夫妻と共に出席の途次、日本を訪問、帝国ホテルで月桂樹の記念植樹を行い、東京会館での歓迎晩餐会に出席、翌日、関西では新大阪ホテルで京阪神合同の歓迎午餐会に出席して離日しました。
最後に、1940年国際大会でポール・ハリスは次のように述べました。"ロータリーの確固たる友情と寛容と有用性の基盤に立つならば、世界の平和は達成され、恒久的なものとなると断言するのを躊躇しない"。
ポールハリスは1947年1月27日に77歳でこの世を去りました。ロータリーに身を捧げると共に、一市民として其の職能を捧げ、社会への貢献には実に偉大なものでした。
2003/05/01
(寄稿:第2580地区東京RC 松岡信雄)
監修:RJW委員会