今週の例会

第3回 7月27日(月)

会長の時間

 今回、皆さんに私を知って頂きたく、私の人生をお話します。
昭和38年1月31日に、元の県病、今居るこの地で生まれました。
住まいは、大南町の判田。10号線は石だらけで、ボンネットバスにキップ切りの車掌さんが居て、電話は交換手のいる有線電話でした。
あかつき保育園に通っていた頃は、チビ黒サンボの役が嫌いで劇自体に出なかったり、泣き虫、おねしょをしょっちゅうしていたり、田んぼのこえ溜めに落ちたりしていました。

 小学校に上って、成績は中の下で、通信簿に4があれば勲章もの、駄菓子屋でくじを引くのが楽しみでした。足は速かったものの、友人としていた野球は、打てない・取れない超ヘタクソで、友人から「お前に出来る事は俺は全部出来る」と言われ大変な屈辱を感じましたが、「その言葉、忘れるなよ!!」これがひとつのバネとなりました。

 中学校でも成績は中の下、英語はチンプンカンプン。2年生の時に中学対抗駅伝大会の選手に選ばれたのですが、当日良いタイムは出せず、サッカー部でも、う~んイマイチでした。

 かろうじて入れた大分商業高校、1年の時にヘタ打って情報処理科の同級生から白い目で見られ、先生や上級生から呼び出しをくらうありさま。良かったのは、2年生から入ったラグビー部。上手くなかったのでレギュラーにはなれなかったのですが、東RCの佐藤佳郁パスト会長をはじめ、友人が出来た事です。

 繰上げ合格で入った千葉の中央学院大学。高校までの私を知る人は誰もいないのだから、これからは新しい自分で「後悔しない人生にしていこう!!」と決め、千葉へ旅立ちました。大学では、勉学よりバイトが充実し、スキーとスキューバダイビングが出来、楽しい日々でした。

 卒業し、父の方針で光伸ガスに入社。出る杭は打たれる で過ごした10数年。26歳で入会した大分青年会議でも入会当初より干されていました。
しかし、この忍の時期を自分で受け入れる事に決め、何事も一生懸命全力で行なって行ったのです。

 お陰で、仕事は諸問題を一つ々解決し、良いお客様に恵まれ、多くの学びを得ました。加えて、LPガス協会では、初の広報部会の部会長に任命され、10年程協会広報に携わり、業界内で顔と人柄を知ってもらえたのは私の財産です。青年会議は、日本JC国際室に2回、副会頭セクレタリー1回、九州地区に数回、大分ブロックに2回と出向経験を積み、日本が平和で素晴らしい国である事を知り、大分青年会議所の色々な事業で友情と信頼、そして気づきを学べました。大分法人会青年部会においても、南九州法人会連合会青年部会長をさせて頂き、多くの先輩、後輩から支えて頂きました。大分法人会青年部会長時は、福本会員達と婚活パーティーに 租税教室、税務セミナーなどを立ち上げる事が出来、現在の社業にも活きております。

 この当時仕事で、LPガスのメーカー1社、卸4社が出資してガスエネルギー大分を立ち上げましたが、これらの友人知人が私に色々な事を与えてくれたからこそ、立ち上げ時の激務を遂行できたと思います。

 38歳頃から、妻の愛がなく、歩く方向も違う事に気づき話し合いを始め、別居し、離婚裁判を行い、約10年で離婚し、再婚して現在に至っております。ガス屋のボンボン、ガスボンの私が、子供の頃考えていた平坦な人生とは大違いですが、学び、気づき、ありがたい友人を沢山得て素晴らしい経験をさせて頂き、現在、誇れる社員と共に暖かい家族と人生を歩いております。

 これからは、RCで「最も良く奉仕するもの 最も多く報われる」を胸に刻み、臨海の皆様と共に奉仕を行ってまいります。

例会の様子

Copyright © 2020 大分臨海ロータリークラブ. All Rights Reserved.